八戸三社大祭法霊山龗神社オンライン渡御祭第十四日目 〜大広間太鼓
令和三(2021)年 八戸三社大祭
法霊山龗神社オンライン渡御祭
第十四日目 〜大広間太鼓〜︎
■ 写真1:大広間太鼓(おおひろまだいこ)
協力:白陽写真館
中世、城中等で合図号令に使われた太鼓を「大広間太鼓」又は「御広間太鼓」と言うそうです。
この太鼓が行列に供する当初の目的は、どうやら龗神社が八戸の総鎮守である、という顕示があったようです。
龗神社が総鎮守とされるのには、10日の三階の松の際に書いた、御祭神の大怨霊という特性があると聞いています。
総鎮守とされた、というより、総鎮守とせざるを得なかった、と言った方がいいかも知れませんが、この辺りはまた別の機会に。
さて、大広間太鼓は大麻神職と同様、辻ごと、又は曲がり角ごとに太鼓を三度打ち鳴らす、と決められています。
この三度打ち鳴らす所作は、龗神社の社殿においての号鼓(ごうこ、開式閉式の際の太鼓の事)に基づきますが、三度、という考え方の根幹は非常に重要な要素と考えます。
大麻神職の大麻祓いは、禍つ神や悪しき者共などが辻から寄り来たる事の無いように「祓う」としましたが、太鼓の場合「封じる」に転じると考えます。
「三」という数字は日本人には比較的受け入れ易い数と言われます。
御三家、三大美人、日本三景、三大庭園など、例を挙げると枚挙に遑がありません。
そして仏教では、死者の世界の彼岸と現世の此岸を分断するものを三途の川と呼びます。
神道式の結婚式では三三九度の盃を飲み交わしますし、日本では天皇陛下のレガリアとして「三種の神器」が存在します。
この様に多様な場面で目にする三の数字、実は邪神悪神や怨霊相手となると意味がハッキリするようです。
よくある例として、特定の物や場所に対して三度廻る、というやり方がありますよね。
これは最もわかりやすい怨霊封じの呪(しゅ、又はじゅ)と言えます。
相変わらず民俗学の見解ですが。
例えば鳥居を三度廻る、社殿周りを三度廻る、神木を三度廻る、神域の海川湖池などで船を三度旋回させるなど、今ではイベントみたいに行われる事もあるやり方ですが、これらが招く結果は怨霊を封じ込める為の呪に他なりません。
御神木に手を当てながら三度回れば願いが叶う、など最もらしい創作話って結構あるみたいですが、三廻りはどの様な願いも叶える手段ではなく、対象への制約を明示化する手段以外のなにものでも無いのです。
古来より日本では上記の様な意味だった事は古文献に散見されますが、現代、神話などが学ばれ無くなった影響なのか、怨霊封じの呪い(まじない)とは知らず、可哀想な事に縁起物と勘違いしてしまってる事例が見られるようになりました。
独自の認識だからといって縁起物や祈願成就の呪いに変化してくれたなら幸せですが、そんな事が起きたら世界中の歴史宗教や民間風俗などの根幹が揺るぎかねない大惨事です。
宗教関連の古い儀礼などに多く存在する、何かを三度廻る行為、三度叩く行為、三度鳴らす行為など、これらは怨霊に対する行為であると理解しなければ整合性が取れないものが多くあります。
後付けの様な説明がされるものも多いですが、ツッコミどころ満載にも関わらず、神社自身の説明となれば遠慮して言えず、そのまま残ってしまってるのかな?と思えるものもあります。
ただ言い訳ですが、我々神職側も自分で創作する様な悪質な行為をしてる訳では無く、昔から伝わる内容を聞いてそう説明せざるを得ないという事なので御理解ください。
結局、三度に関わる行為は、︎
此処から先此岸の世界にて彼岸の貴方様(神)はこちらに来てくれるな、というのを三度重ねて徹底して主張、認識させる行為。︎
同一行動等を三度繰り返し、制約、縛りを明確化する行為。︎
呪を発現するにあたり、三度に渡り宣言する、又はそれに準ずる行為。
などである、というのが、民族研究の見解として私が説得力を感じているものです。
鳥居を三度回って神域の境界を徹底的に明示して神を禁足する、社殿を三度回って祭神の怨念を封じる、などもそうです。
三度重ねるのは、自分以外の対象に対する行為であって、自分の利益になどなる行為な訳が無いというのが本来です。
そこで、龗神社行列の大広間太鼓では、辻ごとに太鼓を三度打ち鳴らし、分岐より寄ってくる悪しきに対して呪の発現を知らせ、近寄らせない、と考えられるのです。
今回は神道的な話が少なく、ほぼ民俗学に寄った話になってしまいました。
最後に注意として、何でも三度であれば呪の一種だとは言いません。
神、特に怨霊神が絡んでくるとそう考えざるを得ないという事です。
以上で大広間太鼓の説明とさせて頂きます。