八戸三社大祭法霊山龗神社オンライン渡御祭第十二日目 〜金幣(旧:御神馬)〜︎
令和三(2021)年 八戸三社大祭
法霊山龗神社オンライン渡御祭
第十二日目 〜金幣(旧:御神馬)〜︎
■ 写真1:人の手による行列の金幣
協力:八戸テレビ放送
金色の幣束(へいそく)を指して、龗神社においては金幣(きんぺい)としています。幣帛料(へいはくりょう、玉串料の様に神饌や反物の代わりに供えられる現金の事)を指して金幣と言いますが、龗神社行列の金幣はその様な意味ではなく、金色の幣束、又は御幣という意味で金幣と称しています。
様々な見解がある中の一つとして、両側に下がる紙垂の上部先端を、神への捧げ物としての帛、つまりは麻布や絹布などで挟み、その部分を木や竹の棒で挟み込んでとめたものを御幣又は幣帛と言い、神饌などと同じく神への献上物の一種とされています。
見づらいながらも写真の金幣も両側に垂れる紙垂の上部中央に四角い部分が見てとれると思いますが、ここが本来は献上品の布だったわけです。
つまりこの事から、金幣の最重要部分はその四角い部分って事になります。
一般的な解釈をするならば、奉献する帛を外からの穢れや悪しきものから守護する為に、左右に紙垂を垂らしたものである、と理解できます。
また神への献上品であるものは目通り(目線)の高さ以上に持つ為、現在は2名が肩の上に担ぎ上げています。
実はこの金幣、2014年までは「御神馬」となっていました。
その名の通り馬で、その背中に金幣が乗せられたものだったのです。
それが2014年、行列内の馬が暴走し、骨折などの重症者を出す重大な事故を起こしてしまった為、それ以来被害者の心的ストレスを考慮するなどの理由で龗神社では馬の使用を控えています。
被害者のご家族からは、馬はお祭りの雰囲気に欠かせないもので好きで見ているので、使用するのは構わないと仰って頂き、大変有り難く存じていますが、暴走原因が不明な為、もう一度使用するという判断には至っておりません。
近くで見ていた行列参加者複数名から、馬に近付いてフラッシュ撮影した人がいて、その瞬間驚いた馬が暴走しだした、という目撃情報がいくつも上がってきましたが、それが原因と特定できない限り再度の使用は難しいと思っています。
その御神馬ですが、この場合は帛はもちろんの事、馬自体も献上品である、と考えられます。
今皆さんが願い事を書いて神社に奉納する板を「絵馬」と言いますが、奈良時代〜平安時代初期辺りまでは平民から貴族に至るまで本物の馬を神社に献上し、願意を伝えていたそうです。
但し、一部平安末期か鎌倉初期とする説もあります。
武家社会に変遷するのと同じくして馬を献上しなくなった、という説です。
いずれにしてもその変遷の結果、木の板に馬の絵を描いたものに変わった為、今でも絵馬と言うのです。
この事からも、馬自体が神への献上品の側面を持つ為、幣帛を携えた馬を神社に連れて行き、馬ごと奉納した、と判断するのが妥当と思っています。
その形式化したものが金幣を携えた御神馬と考える事ができるのではないでしょうか。
ちなみに、馬は神の乗り物とされ云々、という話が良くあります。
その様な側面もあるのかも知れませんが、個人的に馬は別の側面をも持つと考えています。
一つは、古来馬の世話などを行ったのは、人とは見做されない賤しい身分のものであった事。
一つは、神が乗るものに、神と同様に人も乗る行為を行なっている事。
一つは、馬は古代祭祀において、残忍な方法で殺害されて贄とされており、その形跡は全国から出土発見されている事。
一つは、雨乞においては、不浄なるものを沈めて神の怒りを買い、その怒りが降雨となる、という考えから、馬を殺し生贄として水中に投げ入れていた事。
以上から、神への生贄又は献上品の馬を御神馬とする、という側面が存在した事は明確です。
貴重品である馬を生贄にした呪術的祭祀は全国的に行われていたようで、朝廷などから度々の禁止令があったにも関わらず続けられた、と記録があるようです。
この為、貴重な馬を殺害しないよう「馬は神の乗り物で尊い動物」という部分が強調されて知られる様になっている、という要因もあると思っています。
勝手に。
ただの持論ですけど。
もちろん馬に縁の神話に基く伝承も存在し、全てがそうだと考えているわけではありません。
ただ、金幣を載せた馬は、馬自体も奉献の対象だったと考えるには十分かなと思い書いてみました。
以上、金幣から御神馬に至るまで、随分と脱線しながらご説明しました。