八戸三社大祭龗神社オンライン渡御祭第三日目 〜先駆 〜︎
令和三(2021)年 八戸三社大祭
法霊山龗神社オンライン渡御祭 第三日目 〜先駆 〜︎
写真1:先駆(せんく)
露払いのすぐ後ろに位置するのが先駆です。
さきがけ、さきのり等とも言います。
写真では露払いの前にいる様になっていますが、行列が停止した際にたまたまこうなっただけで、実際は後ろ側ですが、先駆の写真はこれしかありませんでした。
一般には露払いと同じく先導役の役職の一つとされ、江戸時代の参勤交代では、金紋先箱供揃(きんもんさきばこともぞろい)等という歌があるように、先駆にも様々な所役が揃っていたようです。
また髭奴(ひげやっこ)という所役の藩士が、長槍を振って街道の人々を楽しませた等とあり、行列先達の顔役の他、一種のエンタメ要素を持った役であった事が伺えます。
龗神社では、総代又は祭事総代より1名、氏子町内会長より1名の、合計2名がその役を担っています。
着装する装束は裃(かみしも)で、帯刀し、手には扇子を持ち、頭には一文字笠です。
また足元は足袋に白鼻緒の草履を履きます。
余談ですが、上級身分の武家は裃でお勤めしていたそうです。
それに対し公家は、我々神職が常装としている狩衣(かりぎぬ)を普段着とし、昇殿時などは別として普段の公務は狩衣で行っていたそうです。
私などは御祈願などで狩衣を着て、終わったら早く脱ぎたいと思ってしまう程に決して着心地がいいものではないのですが、日常を狩衣で過ごしていたというのですから驚愕です。
この先駆は、その装束から「裃着」等と表記する文書もあるようですが、現代の行列に於いては、所役の意味を尊重するならば先駆とするのが妥当と考えます。
さて、上記参勤交代と比較すれば、龗神社の先駆には金紋先箱などは見当たらず、裃姿の人物2名のみです。
しかし後日登場しますが、行列内には八戸大名南部家の紋である南部向鶴の金紋入り先箱が登場します。
実はつい数十年前まで、戦争などの影響もあり神社行列の形式は正しく伝える事が出来なかったようで、メチャメチャになっていたものを、先代の祖父が過去の文書を参考に研究して現在の形に整えたそうです。
これが本来のものかどうかというと、正直わかりません。
私個人の見解では、当初とは違っている可能性は存分にあると考えています。
大名行列と神幸行列は趣旨が違うから所役の位置も違う、とも考えられなくもないですが、藩政期に藩の管轄下で行われた龗神社行列が大名行列の影響を受けなかった等というのは常識的に考えにくく、槍持ちなどが行列内に存在しているのも考慮し、大名行列を基本に考察する必要があると考えています。
さらに甚大な要因として
◯武家文化の影響下にない神幸行列、例えば皇祖系の神社の行列などでは構成が全く異なる事。
◯祇園祭の流れを汲む等と一部が主張する三社大祭にも関わらず、構成からして祇園祭とは似ても似つかわない事。
◯本来純粋な神社神道の神幸祭などに登場する武具及び準ずる所役は、主に戦国期、大きくみても室町以降、有力大名の寄進などで新たに加えられたものが多い事。
◯大名行列と神幸行列を龗神社行列と比較対象とした場合、圧倒的に大名行列の形式に寄っているのが明らかである事。
以上の事から、所役は大名行列を基に考えるべき、と個人的に思っています。
時間は掛かるでしょうが、私自身今後様々調べながら、正せるものは正していきたいと考えています。
但し、だからといって現在の龗神社行列の先駆には意味が無いわけではありません。
藩政期の上級身分の武家が正装とした裃姿が登場する事で、この後にやってくるものが、それだけ尊い存在である事を誇示する役割を担っていると考えています。
将来龗神社行列をご覧になられる時には、先駆の凛とした姿に、その後の御祭神発御を思い描きながらご覧になってみてください。
以上、先駆のご紹介でした。
明日は行列最初の芸能、大神楽のご紹介となります。