法霊山龗神社instagramからの投稿
参道は神の通り道なのか?禁足地は神社の根源ともいえるものか?昨日の禁足地の続きです。禁足地とは、その場所から出る事が許されない場所であり、立ち入る事が許されない場所ではない、という事で間違いありません。但しほぼ全ての媒体では間違った意味で捉えられており、正しく掲載しているのは国語辞典や文学作品のみ、というような状況です。そこで禁足という考えは神社の根幹と関わるのでは?と思うのですが、まずお社についてです。本殿は神を恭しくお祀りし、永く鎮まっていただく為の施設であるならば、何で明かり取りも無い真っ暗な部屋に外から鍵を掛けて、1年のほぼ99%を扉を閉じた状態で御祀りするのかな?と子供の頃に思っていました。それから時が経って神職になってから、参道の中央は神の通り道だから歩いてはいけない、という話について、神職身分が高い立派な宮司さんから厳しく言われた事があります。一体神職の教本の何処にそんな事が書いてるのか?お前そんな事今まで神職研修や國學院で習った事あるのか?と聞かれ、大きな間違いであると指摘された事がありました。神様が普通に出歩いていたら問題じゃなか、と。参道の中央、つまりは神の正面は正中(せいちゅう)であるから正中作法が取り決められているものの、歩いてはならないなんて適当な嘘を広めるのは問題であると酷く憤慨しておられました。神職にも関わらずそんな間違いを信じて教えてる奴もいて問題だと。確かに習った事も神職向けの本で読んだ事も無く、正中は通っちゃダメってのは、いわゆる都市伝説的な話だったんだと目から鱗が落ちました。ちなみに正中作法とは、足の進める順番や引く順番、またその際の所作(動作)等が正中の場合はこうなるというのが細かく取り決められており、その作法を指します。確かに神輿渡御などで神が発御する場合など、最も位が高い場所に神が居るべきであり、中央、向かって右(神から見て左)、向かって左(神から見て右)の順番で位が高い為、神は中央を通るというのはありますが、だからと言って神が日常的に正中を通って出歩いているわけではありません。ここでポイントになるのが、️神様は勝手に出歩けない️神様が日常的に出歩くのは問題という部分です。つまり、本殿は神をそこに留め置く為の施設では?そうであれば神にとって本殿は禁足地という事なのでは?と思うのです。原始的な神道の磐座等も禁足地とされる場合が多くありますが、これも同じくそこに神を留め置くための構造物ではないかと感じます。御神輿も、出でます神を留める為のものでなければ、真っ暗な中に御神体などを仕舞い込む事をせず、もう少し構造を変えて神にとって清々しい環境に出来るんじゃないか?と思うのです。この辺りは基本私の想像に過ぎませんので、もっと違う見方があるのも知ってはいますが、神と禁足の関係という視点で見たら、そう見えてしまうという意味ですのでご理解ください。神にとって本殿は禁足地であるから、その場所に祀り(祭り上げ)、鎮められる(沈められる)、だから神は自由に出歩く事はできない、これが見えぬ神という存在を恐れながらも共に生活してきた、日本人の民族的な思想の現れなのかな?と、勝手に想像しています。最後に、参道の真ん中は神の通る道、というのは間違いであったとしても、神と自分の立場を意識して、敬意を持って避けて通る、というのは間違いではないようです。#神社 #神社仏閣 #法霊山 #法霊山龗神社 #shintoshrine #shinto #shintoism #青森県の神社 #八戸市の神社 #八戸の神社 #禁足地 #禁足 #参道の真ん中は神様の通り道 #参道の真ん中は歩かない #参拝の仕方