法霊山龗神社instagramからの投稿
病気平癒祈願の御祈祷は精神体力の消耗が激しいという話上記表題に適切な写真がないもので、神社近所の「うぉんさい」さんで頂いた、とんでもなく美味しいお通しの写真を載せました。@wonsai.hachinohe なんでだよ!と思うでしょうが、本当に写真がないのでご了承の程お願い致します。本題に入ります。病気のお祓いを本人が受けにくる場合、手術や入院前に成功や治癒を願うパターンと、単に病気に完治を願うパターンと、大まかにこの2つがあるなと思っています。細かく言えば更に分かれますが、入院手術前ではなくて病気の完治を願う場合というのが心にグッと来る場合が多いなと思っています。医師の診断を受けずに神社だけ来るという方は多分そう多くないとは思いますので、病院に行った上で神社に御祈願でいらっしゃる、という事になります。場合によるのですが、祝詞の中で病名を奏上する為に、どういった病気でどういう状況ですか?などと聞く場合がありますが、その際明確な病名を仰るという事は医師の診断を受けているからと理解しているので、上記のように思っています。という事は、それでも神社に御祈願で来る行為は、その人にとって「最終手段」なのかなと感じるのです。不安で藁にもすがる思いでいる、神々の奇跡的な御神徳を願う他無い状況であるなど、誰でも何でもいいから助けてほしい、そんな思いで来られているのかな、と。全員がそうじゃないのですが、この様に感じるケースというのは多いものです。様子を見てそう感じたり、お包みになってきた玉串料の金額から感じる事もあったり、話を聞いて思ったりなど様々です。お子さんの病いであれば親御さんの気持ちを考えますし、御両親の病気なら御家族の気持ちを考えるなど、最終手段と思ってここに来てるのかと感じると締め付けられる様な思いになります。かと言って私は医者でも無ければ、出来る事は祭式に則って祈願を神前に届けるのみですので特別な事はできないのですが、自分自身が後悔するような御祈願はしたくないと思うものです。まぁこれは神職じゃなくても誰もがそう思うものだとは思います。それでお祓いが終わると、とにかく精神的にすり減った感と、やたら体力が消耗した感があるんですよね。身が引き締まる思いで体まで必要以上に力が入っているのか、願いを届けようとする気持ちが強くて気疲れするのか。とにかく体力も精神面も疲労感が強く出ます。自分では当然祈願主の為にと思ってはいますが、突き詰めれば後悔したくないという自己満足の為なのかも知れません。人の精神に根差す仕事というのは、尊くも歯がゆいもので、医者の様に物理的に人を救うことが出来ない事にもどかしさを感じたりします。昨年、八戸地区の全支店長が集まる青森銀行さんの新年安全祈願祭の折、最後に私の思いを話させて頂きました。我々神社は、コロナ禍で疲弊する人々の心の拠り所として、陰ながら精神面を支え願うことしかできない。しかし銀行業は、経済社会に物理的な支えとして果たせる役割があるはずです。銀行にしかできない事があります、その果たすべき社会的役割はあまりにも大きい。どうかこれ以上企業の解散や店舗の閉店などで地元の多くの方々が悲しみ迷う事の無い様、銀行の皆さんにしか果たす事の出来ない社会的役割を、今こそ強い覚悟で成し遂げて頂きたい。これは歯がゆいかな、神職では果たせない、皆さんにしかできない大きな役割です。確かこんな話をしました。病気も経済も、我々神職にはできない仕事がある事は重々承知しているものの、この様に思い悩むものです。それはそういう職責ではないのだからしょうがないと分かっていても、困っている人が自分を頼ってきている時に、目に見えて成果を出せない事への辛さでもあります。祈願主さんも、お祓いしたらたちまちに病気が治るなんて事を期待はしていないのでしょうが、どうか神々の御神威の発揚あらん事をと、強く強く願うというのが人情ってものかと思っています。だから疲労感が強く出るのかなぁと思うのですが、我々に出来る事の精一杯はそこまでなので、高望みせず、すべき事を祭式に則ってひたすら奉仕する事だけを考えて行こうと思っています。#神社 #神社仏閣 #龗神社 #法霊山 #法霊山龗神社 #青森県の神社 #八戸市の神社 #八戸の神社 #総鎮守 #八戸総鎮守 #八戸 #八戸市 #青森県 #病気平癒 #病気平癒祈願 #青森銀行 #歯がゆい #もどかしい #お祓い