お盆
今日は午前に祖霊舎前に祭壇を設えて盆の神饌を供してから、神社を出発してお墓参りへ。
午後からは打ち合わせがあったので少し早めに向かいましたが、車を停める場所が無いほどの混雑ぶり。
そこで、墓地すぐ近くの長者山新羅神社さんに向かい、お願いして墓参りの間車を停めさせて頂きました。
帰りにもお礼を言いに社務所に向かうと、ちょうど禰宜さんが墓参りから帰ってきたので、冗談交りの話に花を咲かせ、帰路につきました。
さて、近年、お盆は祖霊のお祭りである事を知らない方も多くなっていて、夏休みであったり、故郷へ帰省する社会制度の事をお盆というものだと勘違いしている人も多いのだそうです。
物質主義社会が全盛の時代、例えば日本ではバブル期などもそうですが、精神的活動は減退し、その世代が親になった時に子に伝えきれない事が一つの原因と考える説があります。
また意味は理解しているが、その価値を理解しない、又は非科学的行動であるとして価値を置かない考えの方もおられるそうです。
個人の主義思想は我が国では制圧されない事になっていますので、自由が認められている事は素晴らしい事ですが、要点を見落としてしまうと、たちまちに伝統や文化の意味は変容してしまうのだと思います。
祖霊を想いその現れとして墓参りする事は、墓にいるかも知れない目に見えぬ祖霊を物理的行動で和める、事では無いと思います。
祖霊を想う精神活動の体系化された一つのものが墓参りであって、あくまでも精神性を先んじて考えるべきで、物理的行動一つ一つの意味を先んじて論ずる性質のものではないんじゃないかと考えています。
行動をメインに論じたならば非科学的などという論点が発生しますが、上記の通り単純に思考の順番が違うと思います。
つまり、お盆の歴史や本来の意義は様々あるでしょうが、理屈は置いておいてまずは気持ちで考えましょうよ、ってのが私の意見です。
結果必要性に辿り着かなければ、それもまた人の考えの辿る道ですし、亡くなった家族への想いに浸り心に響くものがあってもまた人の考えでしょう。
おおよそ2600年の日本人の歴史の中、科学的思考性が精神性を上回って論じられるようになったのはここ150年の出来事です。
これが飛躍的進化なのか逆なのか判ずる事はできませんが、何かに感動することも、悲しみや喜びを共有する事も精神活動の一つですので、お盆での精神活動も一度でも考える時間をとって欲しいと思っています。