曽祖母の命日
本日は父方の曽祖母の命日という事で、お墓の掃除など午前に行ってきました。
私が高校入学した直後の今日帰幽しました。
曽祖母とは同居していましたが、先先代宮司の後妻であった為当家とは血の繋がりは無かったものの、家族の中で曽祖母ほどに私を可愛がってくれた人はいなかったという程に愛情をもらいました。
私も血縁を意識する事など一度もなく今日まで過ごしております。
曽祖母は所謂「見える人」で、法霊明神のお告げを受けて法霊神楽を組織したり、日々その霊力を頼って相談に来る方がいたり。
私が都内でサラリーマンだった頃、アメリカの9.11テロの煽りを受けた大手取引先が吸収合併となって、担当だった私はその事務処理などの為に半年近くまともな休みは無く、心身が限界を迎えていた時がありました。
もう諦めようか、投げ出して逃げてしまおうか、いっその事死ねたらどんなにか楽だろうか、なんて毎日思っていた時の事。
2年以上連絡もする事が無かった母から急に電話がきて「大丈夫か?」といきなり聞かれました。
瞬間、あぁ曽祖母だな、と直感し「ひいばあさんがなんか伝えてきたんじゃないの?」と聞いたら、「なんとなく電話した方がいい気がして。」
今でも難しい場面に出くわして心身共に限界を感じる事がある度に、曽祖母の事を夢に見ます。
曽祖母が過ごしていた部屋、曽祖母と近所にあった魚屋さんに手を繋いで向かっている場面。
夢ではこの2パターンしか出てきません。
部屋で曽祖母の話を聞いているか、魚屋に向かう道中話をしている場面のいずれか。
いつも神様がどう思っているか、という話で、目が覚めると何となく自分自身がどうしていくのがいいのか決められる気がします。
今までの人生、特に若い頃は散々好き勝手してきましたし、怒られる様な事やちょっと悪い事などばかりしてきて、褒められる事などそんなにしてきませんでしたが、それでも根底の指針としてあったのは昔の曽祖母の言葉と行動でした。
私が小学生の時、曽祖母と2人お宮の前を掃除していた時、その後ろで賽銭箱に乗っていたお酒を盗んだ老齢男性がいました。
曽祖母が気付き腕を掴んで、盗んだものを出せ、というと、渋々そのお酒を出す男性。
他にもほんの僅かな賽銭も盗んでいました。
何で盗んだんだ!?
曽祖母が尋ねると、生活が苦しくて仕事もなく、生きていく為に盗んだという男性。
とにかくお酒とお金は返しなさいと言って取り上げたあと、曽祖母は着物の懐から財布を出して1万円を男性に渡しました。
賽銭とお酒ってのは、奉納した人の思いでここにあるものなんだから絶対手をつけるもんじゃないんだ。
ほんの少しだがこの1万円で凌いで次のまともな生き方を考えろ。
今後神様のものには絶対手を出すな、その障りは必ず自分や周りの家族に大きな罰として出てしまう。
神様ってのは寛容じゃないんだよ、おっかないもんなんだ。
男性は泣きながらすいませんと繰り返し、よろつきながら帰っていきました。
当時、何で泥棒にお金をあげなきゃならないのか理解できず、曽祖母に聞きました。
あの男は反省してないだろうけどね、ばあちゃんは神様と話ができるから色々わかる事があるんだけど、せめてご飯くらい食べさせてやりたいからね。
反省しないならいい事しても意味ないんじゃない?
そう聞くと、それはそうだけど、神様を見た事ない人やありがたさを感じた事ない人はそういうもんだ。
神様の大切さをみんなに教えるのは、お前が将来立派な神主さんになって、ばあちゃんの代わりにやってくれる?
今でも忘れた事はありません。
曽祖母が願った様な立派な神主になるにはまだまだ長い道のりですが、人の心は血の繋がりよりも歩んだ時間が育んだ愛情なんだろうと身に染みて思っています。
きっと私のこの様な曽祖母への想いも神様の大切さの一つなんでしょう。
神は人を救うものではない、畏れ敬い自らの戒めとして社会的指針たるべきもの、私のこの考えは学んだ知識も当然あるとは言え、その根幹には曽祖母の姿がいつも見えているのだと思います。