三浦建設工業(株)神棚御魂入れ及び安全祈願祭、あと家庭祭祀について
令和三年5月8日三浦建設工業株式会社神棚御魂入れ及び安全祈願祭先週土曜日の安全祈願祭のご紹介です。
あわせて神棚や家庭祭祀などについて。
社長に法霊山龗神社の祭事総代をお務め頂いている、三浦建設工業株式会社様の安全祈願祭に伺いました。また、併せて新しい神棚への御魂入れも執り行いました。
今回は業務を一時ストップして、殆どの従業員が参列しての安全祈願祭となり、非常に立派な茅葺きの新しい神棚がお祀りされ、神宮大麻と龗神社守護神札が鎮められました。
最近では神棚を祀るご家庭や企業も著しい減少傾向にあるそうです。神社神道の家庭祭祀はその歴史を見ていくと、中々に宗教行為とは判別できないと個人的に思っています。平たく言えば生活の知恵や地域コミュニティの社会性の現れ、その延長線上にあるものだと考えています。
目に見えない存在を意識する事で道徳性の指針としたり、集合体の均衡を保ったり。また共通の不可侵領域を持つ事で団結を図ったりなど、神道の神はその様な存在の一面がある為、田畑での祭祀と海川での祭祀が違ったりなどするわけです。
だから共通の教義経典の教えに学び順う宗教と、目的によって様々な顔を持つ家庭祭祀が同じなの?と言われると、特性から見ても同一と判別するのは難しいのかな?と思っています。
よく社会科見学で多くの小中学校が来ますが、「神様見たことある?」この辺りの質問が定番です。その時に「じゃあ特別神様の正体教えてあげようか?」と言うと喜んで聞いてくれるので、「今日朝ごはん食べた?お父さんお母さんに作ってもらったの?美味しかった?嬉しいと思った?」と聞きます。大概「美味しかった!嬉しかったよ!」となるので「その嬉しいって気持ちに名前が付いたのが神様の正体だよ。他にも先生に怒られて悲しかったのも、友達と喧嘩して怒ったのも、遊んで楽しい気持ちも全部神様だよ。」「甲子園とか高校サッカー見た事あるでしょ?PKの時とか祈ってる人いるよね?その時の気持ちも神様だよ。」「山の急な道と緩い道で神様違うの知ってた?それは、そこを登る人の気持ちが違うから神様違うんだよ。川の急な流れと澱んだ流れも神様違うよ。それは人にもたらす恵が違うからだよ。」
まぁ子供達は100%ガッカリするわけですけども。
わかってて話す自分も意地悪いなとか思いつつ、一応最後にはフォローのつもりで「神様見た事ある?」とか「神様本当にいると思う?」と聞いています。
大概見た事ないから分からない的な話になりますが、「スマホの電波飛んでるの見た人いる?」という方向に持っていきます。察しがついたと思いますが、「ドアも窓も閉め切った家の中でスマホの電波が通じるのは見た事ないのに信じてるんでしょ?じゃあどうして神様は見えないからって信じないってなるの?電波って壁とかすり抜けて家の中まで来るんだよ?それは不思議じゃなくて神様は不思議だと感じる?」まぁこんな感じです。
フォローになってないかも知れませんが、考えるきっかけだけは示したつもりです。
一応最後には楽しかったと言って帰っていくので、良かったなとは思っているのですが。
ちょっと脱線しましたが、家庭に神棚を祀る事で、日々の生活の中で目に見えない神々の存在を意識し、心の糧、又は精神の励みにしたり、はたまた心に湧き出る悪意に対するストッパーにしたり等というのは、多分日本人が悠久の時を経て培ってきた生活の知恵の一種だと思います。だからこそ、神棚をお祀りする事は、家族では家族調和の一つの基準にもなりますし、子供達の道徳教育にもなります。
戦後教育や政策において、Japanese-KAMIを無理矢理GODと訳して同一のものとして神道を宗教化したあたりから、どんどんおかしくなってきたんじゃないの?と思うのですが、最近ではヨーロッパを中心に神道が学問化されて、別物として研究されていますので、いつか日本でも神道が本来の役割に立ち返る時が来る事を期待しています。
但し、神社での祭祀となるとちょっと事情は変わります。
神社において、何の神がいるかが重要なのか、神の言葉を受け賜る事が必要な事なのかなどは、多分一般認識とはかけ離れた部分があると思います。
毎度ですが長くなったので、この点はまた次回書かせて頂きたいと思います。