神社でお願い事をするのは間違い?その1

神社でお願い事をするのは間違い?その1

昨日の投稿に、神社はお願いをするのではなく、感謝を伝える場所と教わった、というコメントを頂きましたので、その件に関して。長いので2回にわけます。

ちょうど、というと失礼ですが、本日解体工事の安全祈願祭に伺った為、解体祓いを例に挙げて私自身の考えを書きたいと思います。

そもそも神道は、アニミズムや祖霊崇拝を原点とするといわれます。自然をはじめ、在りと在る万物全てに神が宿る為、樹木や河川、建築物や構造物、衣服や財布などの小物類、現代ではスマホやエアコン等の家電類にも神が在るという事なので、八百万の神々と共生している、という考え方です。

先祖霊に対する崇拝は、常に身近に存在する御霊を慰み、神列の末席へと進まれるようお祭りを繰り返し、後々は地域や国土の神へとなられるという考えのようで、その痕跡と思われるものは遺跡より多数出土しているようですので、神道の形式化よりも以前から存在したと考えられています。

この事から、今の自分があるのは先祖の存在あっての事であり、自然の恵みに支えられ、自らに関わるあらゆる物の力によって命を繋ぎ生きている、だから神には常に感謝を以って接するものだ、という思想のようなものが主張されるようになります。

しかしながらこの論理は、そもそも論点のズレを孕んでいます。

日本での自然崇拝の本来は、自然の力への恐れから来ています。恭しく祀るから脅威を与えないでくれ、という祈願です。

祖霊崇拝の本来は、何度も繰り返し祀りあげる事で、貴方は此岸に来てはいけない彼岸の存在だよと認識させ、蘇り(黄泉還り)しないように神列へ進んでください、そして幽世(かくりよ)から現世(うつしよ)に好影響を与えてくれるならお祭りをもって敬いましょう、というものだと考えられます。

古代の遺体などに頭に釘らしきものが打たれたり、そもそも頭を潰されてしまったり、首を落とされているもの等があるのは、黄泉がえりを防ぐという思想の根拠と考える説もあります。

例えば今日の解体祓いでは、建物やその土地に宿る、名も分からぬ神々に対して、
今までの恵みには感謝するものの、こちらの都合で取り壊す事になった。だから咎無く祟る事も無く元の御座に還って鎮まり、今後の行く末を温かく見守ってください。その為に饌を供してお祭りし、拝礼します。

とまぁ、ある意味身勝手な願いをする訳ですが、これって先に述べた祖霊崇拝や自然崇拝の観点と同等ですよね?祝詞例文などを見ても、祝詞の根源的思考性はこの様なものと理解できるものが満載です。

ここで、神社は神への感謝をし、願いをする場所では無い、という部分に当てはめて考えていきますが、今まで書いた事を踏まえると、多分現代人が理解する「感謝」と、神道の原点にある「感謝」では、言葉は同じでもその事情は異なってきます。神への「お願い」も同じです。

するとどういう事なのか?
という部分は、長いので次に書きたいと思います。

%year%%monthnum%%day% 法霊山龗神社instagramからの投稿