陸奥国八戸総鎮守 法霊山龗神社ブログ

青森県八戸市の総鎮守である法霊山龗神社で行われている日々の社務や神社や神道に関する豆知識、地鎮祭やお宮参り、七五三をはじめとしたお祝い事をブログでご紹介しています。

八戸三社大祭

八戸三社大祭法霊山龗神社オンライン渡御祭第八日目 〜屋台山車〜︎

令和三(2021)年 八戸三社大祭
法霊山龗神社オンライン渡御祭
第八日目 〜屋台山車〜︎

写真1〜2:武田信玄屋台山車︎
写真3〜5:太公望屋台山車

協力:白陽写真館、八戸市教育委員会

この山車は、まだ三社のお祭りになる前、まだ龗神社単独の祭礼であった江戸時代の行列に出された山車です。
武田信玄は河内屋、太公望は近江屋が出したものです。

現在八戸市には四台の屋台山車が現存しており、龗神社所蔵の2台の他、西町屋のもの、いずみ屋のものがあります。
いずみ屋さんの山車は八戸市博物館に常設展示されており、西町屋さんの山車は八戸市博物館が管理保管していますが、非公開です。

これらの情報は、今日の会議の時に教育委員会社会教育課のKさんから急遽仕入れました。

ちなみに河内屋さんと西町屋さんは、現在龗神社の総代をお務めで、いずみ屋さんは宮司の同級生です。

この山車人形は江戸時代八戸近隣では制作出来ず、京都で制作されたものです。
人形解体の際に「帝都」と彫られた部分が見つかり、当時京の都が帝都と称されていた事を垣間見る事ができます。

この2台の屋台山車は、隔年交代で曳き出しており、来年は武田信玄、再来年は太公望の予定ですが、現在2台とも文化庁助成事業に選定頂いて修復作業中で、その作業の進捗によっては2年連続で武田信玄の可能性もあります。︎

■武田信玄について
言わずとも知れた戦国期の有名武将です。

八戸の大名である南部氏は元々甲斐の出身で武田氏と同族でしたが、それが武田と南部にわかれて、南部は青森県一帯や岩手県を所領として現在に続いているそうです。

南部家の家紋は南部向鶴に九曜紋とされますが、裏家紋は武田菱となっています。

その様な背景に配慮してか、当時の河内屋では武田信玄の屋台山車を祭礼に出していたものが、現在龗神社に寄贈されています。︎

■ 大公望
古代中国の有名な軍師、呂尚を指して太公望と呼びます。

よく釣り人を指して太公望と言いますが、これは呂尚が釣りをしていた事に起因するのだそうです。

大公(周の文王)が心底望んで欲した人物であった事から太公望と言われた、というのが最も有名な話ですが、どうやら信憑性に難があるようです。

私もこの説が正しいものだと信じ込んでいましたが、今回この投稿を書く際に調べたところ、疑いが残る説だと知って驚きました。

古代中国とあって、やはり装束の特徴など、日本のものとは趣が違いますね。
顔の作りも武田信玄が勇ましいならば、太公望は深慮という雰囲気を感じます。

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ところで、帝都にちなんで話が脱線しますが、日本の首都は何処なのか?という議論が今でも行われていますよね。

この問題は憲法や法律に首都の明記が無い事で起きているようです。

論調では首都は東京か、京都か、東京と京都の両京か、というのが良く言われますが、実は平安京遷都以降、京都から遷都する、という詔や法令は一度も出ていない事にも起因しています。

明治に都が江戸に移って東京が首都になったと思う方も多いそうですが、明治の際は京都と東京の両京制で、天皇に関連する儀式は主に京都で行われる等していたようです。

都市機能、政治面などを考慮すれば東京首都論が当然の様に思えますが、天皇陛下に着目すると事情が変わります。

古来首都とは、天皇陛下が何処にお住まいになられているか、ではなく、高御座(たかみくら)が何処に存在しているか、によって決定するものである、とされていたそうで、現在に至ってもその概念を否定する何物も存在しないのだそうです。

そうすると、高御座は京都御苑の紫宸殿にありますので、京都が首都である、とされる事になります。

私も京都に行った際、申し込んで紫宸殿等を見学させてもらい、千年の都という、一度失ったら二度と取り戻す事の出来ない歴史の重みを感じて、脚がすくみ動けなくなる程の衝撃を受けました。

京都で出会った方々が言うには「天皇さんは今東京に旅行に行ってるだけだから。」みたいな事を皆さん言うんですね。
京都の方にとっては、都は今も昔も京都である、と考えてる方も多くいらっしゃるのかな?と思い、実際はどうであれ歴史を紡ぐ人々の意気込みに感服しました。

その、現在でも都である可能性が大いにある京都で作られた、江戸時代制作の人形及び台車ですので、来年以降の行列では、悠久の歴史に思いを馳せながらご覧ください。

法霊山龗神社instagramからの投稿