神社でお願い事をするのは間違い?その2
神社でお願い事をするのは間違い?その2
昨日の続きです。
一般認識の感謝と、神道の原点にある感謝は事情が異なる、またお願いも同様に異なってくる、と書きました。もの凄く平たく言うと、ある意味無条件で感謝をする、というのと、条件付きで感謝する、という違いかと思います。簡単に言いましたが、身近な出来事に置き換えると、この2つは相当な違いになりますよね。
もし勉強不足なら申し訳ないのですが、私は、祈願、つまりお願い事が全く無い祝詞というのを見た事がありません。大祓詞の様な特殊な祝詞でさえそうです。
ざっくりした祝詞の流れで言えば、奏上する対象の神やお宮の名を呼び、その御神徳などを褒め称えて日頃の感謝を伝える。そこで実は今回はこんな事を願っているので、その力を存分にお貸しください。もちろんタダとは言いませんので饌や幣帛を供し、玉串を奉って拝礼します。だから必ずやその御神威を頂きたいと恐れながら申し上げます。
本当に大まかですがこんな感じです。
言葉の丁寧さや言っている事はほぼ同じでも、できればお願いを聞いてもらえませんか?と、絶対お願いします!では随分と違います。
例えとして適切では無い気がしますが、例えるなら女性に対して
「いつもありがとう、何なら今度一緒に食事行きませんか?」ではなく、
「前からずっと思ってたけど、本当に可愛いし性格も素敵だし、一緒にいるだけで嬉しいし、それだけでも本当に感謝してる。だから一緒に食事したら絶対楽しいし、君と一緒ってだけで俺も鼻が高いしさ、来週末に海沿いにできた新しいお店に食事行こう。もちろんご馳走するから。」
こんな感じで女性が喜ぶかどうかわかりませんが、言いたい事は理解して頂けたのではないかと思います。
つまり、神前で感謝を申し上げる、という行為自体は重要な事で間違いでは無いものの、神社での祭祀には、感謝を申し上げる事に明確な目的がある、という事です。
ある意味小賢しい事の様に思ってしまいますが、前の市杵島姫の際に書いた様に、神が自分の叶わぬ願いを人に与える事でその力が高まる、というのであるならば、神社祭祀は相互利益の一端を担う行為ともとれない事はないと思います。
さて、そうすると神社は願い事をする場ではない、感謝する場である、というのは、どこから出てきた話なのかが疑問になります。ここからはあくまで私見ですが、願いはするけどお礼は言わない、という状態を危惧した方が言い出したのではないかと考えています。
実際に願い事の御祈祷で来る方のうち、その御礼を伝えに御祈祷に来る方は全体の5%未満かと思います。この願いとお礼のサイクルを、神社では人生儀礼としていますが、お宮参りはしたけども七五三はスタジオで記念写真撮って終わり、では、成長の感謝を述べる機会がありません。
厄年の場合も、厄を抜けたからといってそのままにするのではなく、無事過ごしている感謝とこれからの御神徳を願って毎年御祈願に足を運ぶ方が人間にとってより道徳的ですが、実際はそうはなりません。
だから神社には必ず感謝を伝えに行きなさいよ、というのが変化して、神社はお願いじゃなくて感謝をする場だよ、になったのかなぁ、というのが私の想像です。
まとめると、私個人の考えとしては、神社で願い事をするのは当然ながら、そうしたら感謝御礼の為に詣でるのも礼儀として当然である、といったところです。
正しいかどうか自信はありませんので、参考程度にお考えください。